Vol.2 食を思想する
Vol.3 Coming soon

COSMOS COLUMN Vol. 2

食を思想する —— 変わりゆく街で、今日の「美味」を深く味わう

 

 

今年8月下旬、東京のレストラン文化における、大きな足跡を紐解く一冊の本が出版されました。

 

『マダム・トキ物語』(中央公論新社)。

 

マダムトキ物語

「マダム・トキ」は、1978年に代官山で産声を上げて以来、現在に至るまで多くの経済人や文化人を魅了し続けているフランス料理の一軒家レストランです。

 

著書の中では、作家の向田邦子さんや赤川次郎さん、俳優の舘ひろしさんをはじめとする錚々たる名士たちが、前身である「ラ・アリタリア」や「ラ・コロンバ」含めて馴染み客として登場します。

 

店主である林トキさんは、これまでほとんどマスメディアに出ていません。本書は「マダム・トキ」の歩みがご本人の言葉によって解き明かされ、世に送り出される貴重な記録の結実です。

 

「マダム・トキ」が誕生した1978年当時の東京は、戦後の復興期を経て、本格的なレストラン文化が花開き、洗練度を高めている頃でした。その系譜を辿ると、日本の外食文化がどのように都市と歩みを共にしてきたかが浮かび上がります。

 

1950年代、銀座から新宿にかけて喫茶店や洋食店、ホテルレストランが賑わいを見せ、戦後復興の一翼を担いました。続く1960年代には、国際文化が混ざり合う六本木・飯倉片町に「キャンティ」が開店。芸術家や作家、音楽家が集い、レストランが新しい文化を生み出す「場=サロン」として機能し始めます。また1966年には、ソニー創業者の盛田昭夫氏による「国際的な接遇の場、大人の社交場」という構想のもと、銀座に「マキシム・ド・パリ」が誕生しました。

 

1970年代に入ると、「マダム・トキ」の前身であり同じ経営者が手掛けた「ラ・アリタリア」や「ラ・コロンバ」、そして銀座の「ロオジエ」「レカン」といった名店が次々と誕生します。

 

日本が高度経済成長と、国家間修好の発展を果たし、世界で存在感を高めていく中で、こうした一流レストランは都市の社交場として華やかに街を彩りました。この熱量は、後のバブル期における「イタ飯ブーム」や多様な美食の波及へと続いていく、黎明期となりました。

 

当時のレストラン経営には、現在のようなマニュアルや確立されたノウハウは存在しません。それぞれの店が独学で自らの美学とスタイルを模索していたのです。

 

六本木「キャンティ」が「出会いによって新しい創造が生まれる場」であり、銀座「マキシム・ド・パリ」が「西洋の格式とラグジュアリー」を追求したとするならば、代官山の「マダム・トキ」が提示したのは「生活様式的な美学と親密なホスピタリティ」でした。

 

開業当時の代官山は、ヒルサイドテラスの開発が少しずつ進み、ギャラリーやファッションが街に華を添え、洗練された「代官山の美意識」が育まれ始めていた頃。「家のようなレストランをつくる」という情熱のもと、静かな住宅街に佇み、厳選された空間づくりの洋館で育まれる親密なホスピタリティは、まさに代官山という街の佇まいそのものを体現していました。

 

激動する世界、そして街の変化を敏感に察知しながら、日々練り上げられる空間、料理、そしておもてなし。レストランは単に料理を提供する場所にとどまらず、「街」に独自の価値を与え、同時に「街」から刺激や人流を受け取るという好循環を育んできたのではないでしょうか。

 

 

 

 

「麻辣湯(マーラータン)」の賑わい

 

「街と食」という視点で見つめ直したとき、「渋谷」はどのような表情を見せてくれるでしょうか。

 

代官山の閑静な美意識や、1980年代に「シェ松尾」が切り開いた松濤の静謐なハイエンドとは一線を画し、

渋谷には「混交と拡散」、そしてエネルギッシュなカオスが存在します。

 

歴史をさかのぼれば、渋谷で食が栄えたきっかけは、渋谷駅の開業よりも前のこと。1923年の関東大震災で被災した銀座や日本橋の飲食店が復興の場として「百軒店(ひゃっけんだな)」がひらかれたことに端を発します。当時の地名はまだ旧漢字で「澁谷」と表記されていました。長い時間をかけ、様々な文化や人が混ざり合い、発展を遂げてきました。

 

最近では、渋谷桜丘町のサクラストリートの「麻辣湯(マーラータン)行列」も象徴的。

 

 「李暁七(りしょうち)マーラータン」のShibuya Sakuraga Stage 出店に伴い、 以前から人気の高かった「七宝麻辣湯(チーパオマーラータン)」もあり、界隈はあたかも「麻辣湯横丁」のような熱気を帯びています。

 

四川発祥の麻辣湯、近年中国企業がチェーン展開で大きく飛躍しました。ショーケースに並んだ色とりどりの野菜や食材を客が自ら選び、好みの麺やスープと合わせて調理してもらうインタラクティブなスタイル。スープの深みとヘルシーさ、そして「自分好みにカスタマイズする楽しさ」が融合し、爆発的な人気を博して、日本にも波が押し寄せています。

 

1990年代、流行の発信地であった渋谷の若者たちがファストフード店を溜まり場にしていた時代と比べると、現代の若者たちが中国伝統のスパイスとフレッシュな野菜を求める姿には、どこか食に対する成熟した感性すら漂うよう。こうした流行の景色の変化もまた、多様な文化を飲み込みながら刻々と変化する「渋谷らしさ」の一片といえます。

 

 

 

 

減算の美学と「我を捨てる」哲学——日本料理「捨我」

 

渋谷の雑多で活気に満ちたストリートの喧騒から少し離れ、視線を上方に移すと、そこには全く異なる「食の思想」が広がります。

 

Shibuya Sakura Stage SHIBUYAタワー最上階の38階「manoma」内において、本年5月から9月末までの期間限定で営業し、多くの食通を唸らせたのが日本料理店「捨我(しゃが)」です。

 

店名の通り、「我を捨て、素材と向き合い、お客様と向き合う」を信条とするこの店では、「減算の美学」によって、「素材をありのまま以上に引き出す」ことを追求する思想が、言葉にせずとも伝わるような、「純度の高い」一皿一皿に、短い営業期間を惜しむ声が聞かれます。

 

店主を務めた合田峻(ごうだしゅん)さんは、ミシュランガイド東京で長年三ツ星に輝く「日本料理 かんだ」で研鑽を積み、西麻布で水と塩をベースに素材の魅力を極限まで引き出す名店「明寂(みょうじゃく)」の三ツ星獲得にも貢献した実力派料理人です。

 

合田さんが新たな挑戦の場としてあえて変貌著しい「渋谷」を選んだ背景には、絶え間なく変化する都市の喧騒の中にこそ、静寂で純度の高い食の体験を対比させ、訪れる人の心に深い余韻を残したいという意図があったといいます。

 

東京は今や、2007年から19年連続で世界で最も星付きレストランが多い美食都市です。最新のミシュランガイドを見渡すと、強固な存在感を示す街は、麻布、青山、広尾、赤坂といった港区エリア。その中で、カルチャーの交差点である渋谷の超高層階に「捨我」のような引き算の美学を提示する試みは、東京の食の思想が新たな多様性を獲得している証左と言えるでしょう。

 

 

 

 

「自分を愛すること」から始まる、レストランづくりの真理

 

前出の、麻布、青山、広尾、赤坂には、2026年度版ミシュランの、新規・昇格店が顔を揃えます。審美眼を守り、育てることを奨励する街の特性と呼応するかのように、これらの店舗に共通するのは、「シェフ・料理人の思想」が体現されていること。

 

こうした流れをリードするのが、東京・西麻布で持続可能な食のあり方を探求し、ミシュラン三ツ星とグリーンスターを保持し続けるフレンチレストラン「レフェルヴェソンス」の生江史伸(なまえしのぶ)シェフです。

 

生江シェフは、年に一度、同店で発信している「インパクトレポート2025」において料理人としての原点にあるお母様の言葉を回想しています。「自分を大事にできないで、どうやって人を大事にするの」

 

生江シェフインパクトレポート

多忙を極め、ともすれば自己犠牲が美徳とされがちな料理の世界にあって、この言葉は極めて深い洞察を含んでいます。自分自身の心身を労わり、自己を尊重すること(Self-care)ができて初めて、他者へ心を配り、自然や社会の恵みに感謝を捧げる「本当のおもてなし」が可能になる——。

 

生江シェフの料理やレストラン運営の根底には、人間と環境に対する温かな哲学的探求が存在しています。100ページを超える圧巻の「インパクトレポート」の全貌はこちらでご覧いただけます。

 

他人に食を提供するという営みは、日本において、もはや単なる栄養の補給でも、技術の披露でもありません。料理を提供する側の心が満たされ、素材や生産者への敬意が注ぎ込まれてこそ、その一皿は食べる人の身体と心を深く満たす体験へと昇華します。

 

 

 

 

街を歩き、食を愛でる大人の贅沢

 

「マダム・トキ物語」は、街とレストランが、お互いに刺激を受け合って、街を体現するような名店が生まれた時代の息吹と人の感性による経営を教えてくれます。

 

現在のレストラン経営は、より研鑽されたノウハウと技術によって、深化はとどまるところを知りません。出店先に左右されない、確立されたブランドの追求も進んでいます。

 

それでもまだ、「街と食」は一心同体。

 

忙しないスマホの情報や都会の喧噪に意識を奪われそうになったら、日常から少しだけ離れ、今、目の前で育まれている街の歴史に思いを巡らせながら、思想のある一皿と出逢う旅へ出かけてみませんか。街の情景とともに味わう豊かな時間が、きっとあなたの日常に心地よい深みを与えてくれるはずです。